子どもがやっていることは”くだらない”という穿った見方
いつの時代もこの見方は存在しているように思えます。
私の子ども時代は、正に世に”ゲーム”が広がっていった時代です。当時を振り返っても、現代でもそうですが、ゲームは”悪”であるという固定観念を持ち、その固定観念をもとに強制的にやめさせる、厳格なルールを設けるなどの管理することで、勉強に向かわせようとする大人が大勢います。
ゲームが存在する以前には無かったかというとそうではなく、芸術であろうが科学であろうが、スポーツですら子どもが興味関心を示して熱中する事柄に対して、『将来の役に立たない』、『そんなことでは立派な大人になれない』、『勉強もしないでくだらないことばかりやっている』といった見方によって子どもに接していたというのは、親や祖父母らと話す中で聞いたことがあります。
さて、この”くだらない”は誰にとってくだらないのでしょうか。
不安・心配もあるが、一番は大人側にある、わかっていないものに対する不信感
今回の話題については、様々な場面で著名な方や教育現場で活躍されている方々が、幾年にも渡って発言されていることです。
子どもを自分自身と対等に見て、子どもが熱中している事柄に対して、何がそれほどおもしろいと感じ、熱中しているのかについて子どもから話を引き出したり、自身も実際にやってみて、興味や知識を持ってその話題を共有する。
これができていないにも関わらず、一方的にその事柄や熱中している子どもの心情を踏みにじるような言葉を投げかけ、厳格に管理しようとする。
その裏には、”勝手に膨らませた不安があり、子どもが熱中する対象がどういったものかを理解しようともしないにも関わらず、わからないから受け入れないで不安の感情に流されてしまう”があります。それがゆえによくわからないため、ただ厳しいルールを敷いて自分自身がわからなくてもいい状態を作ろうとしてしまう。
知れば、いい面も見えます。思った通りの悪い面も見えます。そのどちらも子どもと共有して、どうしてほしいか、どうしたいかを互いに共有することができます。
このような話題が出ると、どうしても『くだらないものはくだらない』、『将来に直接役に立たない』、『時間を無駄にしている』などと言う方が出てきます。
その将来とはどんな将来でしょうか。時間を無駄にせずに生きるとはどのようなことでしょうか。そして、その将来のため、時間を無駄にしないで子ども時代を過ごした結果、否定する人々が思い描いている人物になれるのでしょうか(そもそも具体的に言わないので、否定する人々が思い描く人物は非常にぼんやりしたものですが)。
否定する人を否定するのは、同じことの繰り返しになってしまうと私は思っています。
さて、否定する人に対して、『あなたの言っていることは間違っている!』と断罪するのは簡単です。ですが、それでは感情をぶつけ合うだけで、諍いしか生まれません。
互いに相手を言いくるめる、論破する、力づくで従わせるという土俵にいては、エネルギーを違うことに使ってしまいます。関係を悪くし、溝を深めてしまう可能性が非常に高いです。そして、何も変わらず、嫌な気持ちだけが積み重なっていってしまいます。
ここまでを読んでいただいた上で
ところで、今ここで”否定する人々”についてですが、読まれている方々は誰を頭に思い描いているでしょうか?
自身の親でしょうか、今まで見てきた先生でしょうか、もっと広く大人でしょうか。それともあなた自身でしょうか。
おそらく、この記事に目を通すのは、年齢的には大人になっている方でしょう。そこで、ぜひ自分ならば子どもがやっていることが”くだらない”と思うことに対して、肯定するか否定するか。その理由とご自身の今後の言動について、どうしていくことがまずあなた自身が納得できる事柄になるかを導き出してほしい。
そして、知識・経験があなたよりも少ない子どもが、あなたからの話を聞いて『冷静に話をされたことでわかった』、『納得できたし、自分で行動できる』と言える状態をつくりだせるかをも考えて行動していただきたい。
プロセスを省略して物事を進めるやり方を教えないために
この話題について、『面倒だ』、『まわりくどい』、『だめなものはだめ』という意見があると思います。また、『いいからやれ』、『言い訳するな』、『そんなんじゃ、今後やっていけない』と言いたくなるでしょうか。
しかし、社会がそうであるから、自分が育ってきた中でその経験しかないという狭い視野で話を進めることには疑問があります。
これらの考え方や言葉、社会に出て職場などで言われて、素直に従っているのでしょうか。言われたことに対して、腹を立てたり、文句を言いたくなったり、実際に言ったりしないのでしょうか。誰かにそれを愚痴ったり、共感してほしくなったりしないのでしょうか。
一番は言った相手の言葉の真意を汲もうと努力するでしょうか。それよりも前に感情が先行してしまいませんか。言われた言葉を反芻して自分に落とし込もうという気持ちは起きないのではないでしょうか。
自分がされていることが社会の常識!=子どもに同じことをしっかりと教育すべき!
この考えが確固たるものであり、信念を持って行動されているのであれば、何も言うことはありません。
しかし、そう思っている方は少数ではないかと思います。であるならば、相手に自分の考えを伝えるためには、相手が納得できる・わかる・行動できるようになるようなプロセスを踏んで伝えることが必要ではないでしょうか。
自分の心の安定を
自分のことを二の次にして活動していると、その自分の思いにそぐわない行動は目に付きます。それゆえに、いろいろ言いたくもなります。
ですが、残念なことに言う方も言われる方もどちらもいい気分にはならないことがほとんどです。むしろ、悪くなることの方が多いのではないでしょうか。
であるならば、子どもも自分自身もどちらも完璧ではないことを受け入れる、自身の健康・精神状態がどうであるか振り返る、それを周囲に受け入れられるかどうかは別にして、泣き言を積極的に言う。感情を安定させるために、やらないことを決めて、やりたいことをやる時間を作る。
まずご自身をケアする。または、ケアしてもらえる人に頼む。
多くの事柄は、ご自身の精神的・身体的な安定があってこそ、わかろうとする寄り添いの感情も生まれやすくなり、うまくいくものと思います。その上で、子どもと向き合っていっていただきたい。向き合い、話をして物事を共有する余裕が生まれていくのではないかと思うのです。
ぜひ、ご自愛ください。
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