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教員を続ける中での気付き〜子どもの理解は自己理解〜

教育の視点
UnsplashAbsolutVisionが撮影した写真

先生を続けている理由は

『先生になろうと思ったきっかけは?』の問いに対して、「憧れの先生がいた」、「人に教えることが好き」などいろいろと理由があると思います。

一方で、先生になった後、『先生を続けている理由は?』についてはどのように答えるでしょうか。こちらは、さらにいろいろな答えが予想されます。

「やってみてやっぱり教えるのが好きとわかったから」、「教え子が成長した姿を見て、良かったと思えるから」などがあるでしょうか。

私の場合は、上記もありますがそれ以外に「自分自身のことが理解できるようになるから」があります。

様々な児童生徒と関わることや研修で自己理解を深めている

私は周囲の人とは考え方が少々異なるなという感覚があります。幼少期から青年期にかけては、周囲とうまくやっていけないということはないものの、言動について「変」と揶揄されることがしばしばでした。特に親には、「何を考えているかわからない」をよく言われていました。

「そりゃ親子でも脳が違うんだから当たり前でしょ」と反発していましたが、やはり現実的に人間関係が難しくなることがあり、精神を病んだりしました。今はすべて受け入れて、どこ吹く風です。

この“受け入れることができた”については、まさに先生をやっているからできたと言えます

毎年、様々な特徴を持った子どもたちと関わっています。その特徴は子ども自身の脳の特性であったり、家庭に問題を抱えていたりなどです。また研修においても発達と脳の関係も含め、多方面の知識を得る中で「あぁ、私はこういう理由で、こうなのか」と自分自身について腑に落ちる経験が多々あり、これは先生であるから経験し、気付けるのだと思っています。

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きっかけはいわゆる問題児への興味関心から

私が初めて教員として勤務したとき、問題児の認識は文字通り「問題を生み出す、問題行動のある児」でした。現在は、「問題になった、にされた児」に変わっています。

経験の浅いときの問題児は『とにかく指導をして望ましい姿に変える』ことを目標にして関わっていました。しかし指導が響かず、生徒は変わらず、双方の間の溝は深まります。視点が私本位であったからです。

すべての責任を生徒個人の特に性格などで捉え、責任転嫁したままであったならば、今でも同じことを繰り返していたかもしれません。ですが、私が疑問に思ったことは原因なども含めて知りたがる性質で、なぜ学校生活で自身の評価が悪くなったりするのに、問題行動を起こすのかを知りたくなりました。本人に聞いたところで、「しらねぇよ」と、一言でかつよくわかる反応しかくれないので、ネットや書籍で調べていきました。

すると問題行動は、本人だけに理由がないことがわかってきます。脳の特性であったり、家庭環境であったりと自身の努力だけでは変えようのない物事がその背景にある。また、その状況から、うまくいかない状況に対して上手に折り合いをつけたり、誰かを頼ることが難しいため、自分でもなんだかよくわからずストレスを抱えて生きている。それらに伴って出てくる言動を、問題行動だ!と、外にいる人間は認識してしまうのです。

この事実に気づくことができると、「あぁ、その感情はわかる。そんな感情を抱えて生きていた時があったな。粗暴な言動になっていたよな。」と、思い出される事が多くありました。特にその感情は二次性徴が出てくる思春期では顕著であるし、経験をして思い出される方も多いと思います。

当時は「この気持ちをわかってくれる人がいないものか」と友人に愚痴ったものです。友人も似た経験はあり、共感はしてくれますが、その解消は互いによくわかりません。先生に話すという選択肢もありません。なので、結局特に扱われず、時間が解決して今に至ります。それがいいと言う側面もありますが、やっぱり知っていたかったなぁという思いはあります。

先生となった今、過去の自分の感情と理由がわかるので、同じような状況にいる生徒と話ができます。

今、思春期の話題に変わってしまいましたが、問題児と関わることにおいて、以下のような流れで行動できるようになっているということを示したかったのです。

問題行動のある生徒→行動背景を探る→探った事実と知識から対策を考えつつ、過去の自分の感情と照らし合わせる→子ども理解と自己理解→生徒指導へ

過去の自分の感情と照らし合わせるの部分は、何それと思われるかもしれません。これは、過去にモヤモヤしてよくわからなくて、でも誰にも言えなくてイライラした経験において、私はどうして欲しかったかを探るものです。それを踏まえて、子どもの理解と自己理解につなげる。必ずしも子どもの理解と私の経験や理解は一致しませんし、ずれた内容になることもあります。ただ、私もこういう経験があって、こういう感情と行動になったことがあるという話ができるので、子どもがこいつには話をしてもいい対象かもと思う可能性を高めることになると感じています。

気付き、実践できると、自然に行えるように~今も継続中~

現在も自己理解を含めて、子どもの理解という流れを実践しています。

また、現在においては「発達障害」が広く認識されるようになり、それは生まれつきの脳の特性で、物事の認知の仕方がどうなっているかがわかってきています。

その知識も自分自身に適応すると、「私も発達障害の特徴を持っているな」と認識でき、それも受け入れることができています。それに加えて、問題行動のある子どもへの理解だけでなく、学習で問題を抱える子どもに対しても「勉強ができない子ども」という一側面を切り取っただけの捉え方をしなくなりました。

脳の特性によって、どういった物事の捉え方をしているのか、それによって何が難しいと感じているのか、観察や対話を通して理解しようという視点で接することができるようになりました。もちろんすべてが理解できるわけではありません。ですが得られる情報が増えることは、より子どもにどんな指導が適切かを考える手立てが増えることになると捉えています。

その考え方もあって、子どもの行動に感情的な指導をすることがかなり減りました。

表面的に現れる言動を指導することは、困難を抱えている子どもを萎縮させる、子ども自身の自己否定を増大させてしまう可能性が大きいためです。これを繰り返せば、最終的に解消に向けての支援やそのきっかけ作りすらできなくなってしまいます。

先生も人間で感情的に行動することもあります。ですが、子どもにそれをぶつけてしまう前にできることがある。

「なんでこの行動をしたのか、何が問題か。」

その考えを感情的になってしまう前に頭に浮かべて、冷静に探っていく。その事実をもとに、子どもと対話する。保護者対応にも当たる。その視点も持っていると、声かけの仕方や指導の仕方も変わってくるのではないかと思い、私は実践しています。

おわりに

教員としてはたらく中で多くの子どもと関わり、その中で自己理解も深めて、指導に生かす。教科指導力の向上と同時に重要視しています。自分と子どもは異なる存在ですが、対話などを通して、子どもの中にある過去の自分を見つける。自分に言い聞かせるつもりで、その困り感などを聞き、どう折り合いをつけていくのか話をしてゆく。

気付くこと、扱う対象が何ものであるのかが完全にでなくとも捉えられると子ども自身も試行錯誤しながら行動できるものと考えてます。

子どもが対話の中で気づき、困難にあっても折り合いをつけるように葛藤しつつ、変わっていこうとする姿が見られ、できるようになったことの話をしてくれる。それが私が教員を続けていく理由の一つです。

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