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常にどの視点で、その生徒を見守っていますか?

教育の視点

「みまもる」という言葉について、どのような意見が浮かびますか

『大人が子どもをみまもる』

この言葉でどのような情景や思いが浮かぶでしょうか。

見守る大人はどのような人か? 子どもはどの年代か?

もちろんそれも考慮すべきポイントです。

ですが、今回は、「みまもる」の部分について、教員視点でどうあることが望ましいかについて、お話をしたいのです。

 

教員視点で「みまもる」

ここからは私の考え方をご紹介し、実践について例を交えてお伝えします。

結論は、「常に身体的精神的変化が起こっているか否かを意識し、評価する感覚で看る。」です。

補足しつつ、細かに見ていきます。

身体的精神的変化が起こっているか否か

身体的と精神的変化とは、単に態度で考えます。

その背景には、本人の身体的な特徴、学校生活の中では勉強・友人など幅広く、また家庭環境も大きく影響します。

それらは、生徒の態度に大きく現れます。

具体的に、

<日々>服装・持ち物・授業中の姿勢・級友への言動・教室内でだれかといるか一人か・休み時間ごとにどこかに行く様子か・部活動への取り組み方など

<定期的>定期試験の結果・休む頻度など

その現れ方が、露骨な生徒は発見がしやすく、声掛けもしやすいでしょう。

しかし、普段大人しいがゆえに、その判断がしづらい生徒がいます。

そういった生徒も、漏れなく声掛けをしていくためには、計画が必要です。システム的に行うならば、週や月で、必ず生徒に声をかけたかどうかをチェックするシートを作成し、実行です。

そのシートが埋まっていくと、自然と生徒の特徴が記録されていきます。また、声掛けの漏れも少なくなります。もちろん日々、それができるわけではありませんが、忙しい中では、自身の行動をシステムに組み込んで行動をしていくことが、行動する・記録するにつながり、最終的に学年連携・保護者連携・所見・要録につながります。

 

●評価する感覚

評価は、いわゆる成績や通知表、指導要録など全般で行われます。それらを作成・入力する時期になり、『この児童・生徒は、どんな生徒だっけな。』、『印象薄いな』、『そういやこんなことあったな』など、記憶を呼び起こしながらその作業を行う方もいるでしょう。

日々、忙しく過ごす中、記憶のみに頼る方は稀かと思います。そこで、ノートやPCに記録を残していることとは思いますが、そこで評価する感覚を取り入れてはどうでしょうか。

記録は、事実を記録するのですが、そこに評価を入れる。そうすることで、変容について、方向性を定めます。方向性は、生徒個人の、生活習慣や学力などの向上をどのように行うかです。

学力は、どの教科をどのように学習するか。生活習慣は、どのように改善していくか。大人や同級生など、周囲の人との関わり方はどう行わせるか。

来るべき評価に備えて、評価する感覚を持って、「みまもる」ことを日々の学校生活で行っていきます。

その意識を評価者が持つことができると、みまもる時間は1秒でも十分になります。

1秒であっても、変化を捉えることができる。今までとはちがうなという違和感をもつことができる。変化について違和感を覚えた、変化を捉えられた生徒については、声をかけたり、注視する機会を増やす。そこで、記録がさらに具体化されていきます。

 

おわりに

すべては、担当をする間どうするかの視点を内包しつつも、より広い視野で

その生徒に、卒業式をどう迎えてもらいたいか

これを見られるかどうかだと私は考えます。

例え、担当する期間が一年であったとしても、その時だけの指導に終始せず、学年が上がっていくに従っての視点をもってもらうように仕向けたいものです。

生徒状況によっては、”今”に限っての指導が必要になる生徒もあるでしょう。ですが、それを乗り越えて、未来を見通す指導に向う視点をこちらがもっていないと、変容を促していくことは困難です。

 

最後にお伝えしたいことは、どの生徒に対しても一様の指導をすることが難しくなっているということです。

特別支援の考え方の中にありますが、どの生徒に対しても常に個別の指導計画を持つことが求められます。多忙を極めるからこそ、一様な指導で型にはめるのでなく、記録し共有し、多くの視点でこの生徒にはこの指導をという計画をもつ。それが、個別指導を充実させ、この学級の指導がどうあるべきかと、振り返り、更新していける力に変わると考えます。それが、安定した学級経営となる。私はそう考え、日々活動を行っています。

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