渦中においてはとにかく ツラい
荒れたクラスを担当すると、「もう教室に行きたくない」、「考えるだけでも憂鬱」、「学校を休む理由ばかり考えている」など、さまざまな負の感情がやってくるものです。
そして、教室に行けば急に生徒の様子が変わるはずもなく、いつもいつもストレスが溜まる状況になるわけです。この解決とはいかないまでも、どのように向き合うかについては、上記リンクからご参考にしていただきたい。
今回は、そのツラいツラい時期が過ぎた後に経験した内容をお伝えしたい。
無駄ではなかったと思える瞬間
荒れたクラスを経験し、それを乗り越えると確実に教員としての能力が向上します。もちろん、乗り越える過程の苦しみも解決に向けて行った努力や工夫もすべて経験することが前提になります(一年間、ただ感情なくやり過ごしたのでは、残念ながら得られるものは、負の感情にともなうものでしかないと思います)。
まずやり切る。どんな工夫でもいいので、足掻く。その先にやってくるもの、それは達成感だけではありません。
何処に行ってもやれる授業力と学校•生徒の変化から得られる自信です。
特に学校•生徒の変化について、以下①と②で詳説します。
前年度の荒れたクラスへの工夫や対応の仕方は、生徒の支持にも繋がります。問題を起こしていたすべての生徒ではないものの、好ましくない態度はかなり減少します。加えて、支持を得られているので、授業を楽しみにしてくれるようになる生徒も出てきます。
また、生徒同士で情報が回っているので、前年度に担当しなかった生徒の評価も良かったりします。
これによって、授業のやりやすさは、前年度の比ではなくなります。より、工夫してみたいこと、取り組んでみたいことへの協力を得やすくなります。
協力を得られる環境があるということは、やってみたい授業内容などの実践について、生徒から即フィードバックが得られていくので、授業の質の向上にも大きく寄与します。
これも副次的なことでしたが、全然教えていないクラスの生徒から、質問をされるなどもよくありました。
担当した生徒らが卒業した後で聞いたこと
荒れたクラスでは、よくあることだと思いますが、問題を起こしてくれる生徒は数名です。その他はただの便乗型の生徒になります。
では、なぜ便乗型になるのか。生徒視点で考えれば、当然です。
クラス内での自分の居場所を守るためです。
この言葉を直接卒業生から聞いたわけではありません。実際には、『あいつがやってることが面白いかったから』、『勉強が大事なのはわかるけど、わかんないし、みんなと騒ぐ方がよかったし』といった中身です。いい子になって黙っていることもできたとは思いますが、それをする利点はない。ましてや、先生側に立って考えるなんてことは、そもそも発想にないのです。
冷静にそれらを捉えてみれば、生徒らの感覚を共有することができます。
一年間、同じクラスで共に過ごしていく横の人間関係と授業など一時的にしか関わらない縦の人間関係。どちらを優先しようとするか。真面目な生徒であったとしても、問題を起こす生徒たちに引きずられた反応になってしまうものです。
個々に話をすれば、何も問題を感じない生徒が大多数です。でも、そのクラスでは、悪い面が際立つ。単にその場の状況に合わせていた。その背景には、同調の心理がはたらいている。
意図的に授業の不成立を狙う考えはそもそも持っていないが、問題を起こす生徒に触発され、楽しい感じができ上がってしまうので騒いでしまう(騒ぐに至っている時点で、指導対象であり、問題だ!と思われるかもしれませんが、一旦それは置いてください)。
とすれば、そういった生徒らの感覚と我々がもつ【べき論】とにズレがある。その事実に沿って授業展開をすることが、ツラいを変える術になると私は考えています。
その事実に沿わず、力技で静かにさせることは、生徒としてはただの抑圧であり、その鬱憤の吐口は何になるかわかりません。これでは、コントロールすることが難しくなってしまいます。
であれば、生徒と対話し、授業の内容も生徒発信のものを取り入れるし、授業に関係ない話で盛り上がる。時には授業をしない時間もある。というやり方をすることで、生徒の視線や意識を変える。生徒から出たくだらないと思える意見(現実的ではない“たられば”の意見やシモの話題など)でも、共有して一緒になって考えたり、面白がったりすることも授業のひとつという考えになったのです。
確信犯になって、生徒視点で授業展開をした
卒業生の話を聞いた後は、当然のように生徒が授業中にしゃべる授業展開をするようになりました。
常にではなく、生徒と対話しながら、聞く場面としゃべる場面をしっかりと区別しながらです。ですので、クラスによって展開の仕方が変わります。授業の最初からしゃべる展開にするのか、授業の途中でそうするのか。
さらには、生徒らの状態によっても変えられるようにもなりました。
生徒らは、日々気分などは様々に変化しているし、一人二人がクラス全体に影響を与えている時だってあります。原因が友人でったり、彼氏彼女であったり、家族であったり、私の授業の直前に起こったことであったり、いろいろです。それらを見取って扱う。気にしながら授業を進める。
これは私が雰囲気に耐えられないがためでもありますが、やっぱり気になるので「何があったの?」と聞いてしまいます。話をしてくれなければ、そっとしておくし、話をしてくれれば授業を止めてでも聞く。個人的なことであれば、「力になれるかはわからないけど話くらい授業後に聞くよ」と言っておく。
結果的に授業進度の調整を常にしなくてはいけません。ですが、その苦労は授業が成り立たない状況を経験していれば、大したことではありません。
言い方を変えてまとめてみると、《教員と生徒であるという関係を維持させつつも、生徒らが立場が上とか下とかといった感覚を持たずに関わり合える》ことを心掛けていました。
これは賛否あると思いますが、生徒らは私を基本的にあだ名で呼んでいました。ただ、タメ口で話す生徒は少なかったです。最もそのタメ口なる生徒は、誰彼かまわずタメ口になる生徒でした。
おわりに
以上述べてきたことは、荒れたクラスを受け持ったことで生まれた事柄です。いつも思うことですが、この経験がいろいろな気付きと工夫に導いてくれ、私の成長の速度を速めてくれたのだと。ツラいということで目の前の生徒らを置き去りにせず、試行錯誤した結果だと言えます。
とはいえ、何度も言いますが、その渦中においては余裕はなく、このツラさがいつ終わりを迎えるのかと考えるばかりになります。その時には、ぜひと一人で抱えずに頼れる人やものを頼ってください。
私もクラス担任や同じクラスに入っている他教科の先生と話題を共有していました。ただ、愚痴るだけでは改善には向かいませんから、誰がクラスを乱す原因になりやすいか、それに乗るのは誰か、要因になりやすいことは何か、誰が話のわかる生徒かなどを情報交換し、攻略法を練っていました。
一方で、残念ながら担任が自身のクラスの状態に関心が薄い場合は、問題が大きくなったり、担任の小言がこちらに飛んできたりすることもありました。
しかし、授業担当を放棄する理由にはなりません。そんなときこそ、生徒と授業内容そっちのけで話をしました。
荒れたクラスは、その評価を受けていることを把握しています。そして、その評価に対しては、不満を持っています。
すべて自分達のせいではないと。
授業担当である私ができることは、話を聞いて共感してあげることです。その機会をつくることができると、それに応えてくれるように授業を進めやすくなったように感じます。
今、振り返ってみると、私自身が教員でることから発するバイアスを取り払うことができたことで、状況が変わった、変えられたのだと思います。
授業は【〇〇であるべき、生徒は〇〇であるべき】といった固定化した考えから脱出してみる。
急に考えを変える、授業を変えるなどは困難さが伴うでしょう。しかし、それをする場合としない場合、どちらがツラさを変えるきっかけを作れるかと考えていただきたい。そして、行動をする際はぜひ、生徒らと対話していただきたい。そして、生意気とか程度が低いなどと思わずにその意見に耳を傾け、変えるきっかけを掴んでもらいたい。
小さなことでも動き出せれば、変わる実感がやってきます。それが自分自身の成長と生徒の成長になると考え、前向きに進んでいけることを願っています。
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